緑のコトノハ

いつか人間になるかもしれません。ならないかもしれません。

テレパシーの有用性

2021年11月21日日曜日

 

7時半頃目を覚ます。昨日買ってきたバケットを切り、 オーブントースターで焼いて蜂蜜とバターで食べる。堅いバケットは目にも舌にも味わい深い。老木のようで。
お寺のお坊さんがやってきてお経をあげ始めたので、自室で昨夜読んだ本をまた読み返す。『ボクたちはみんな大人になれなかった』。今日はこれの映画化したものを観に行く予定。観る理由はただ1つ、森山未來をみたいから。

昼までは家でゆっくりして、12時過ぎに家を出る。タリーズで読書して時間を過ごし、映画を観て帰宅した。

帰る途中にプレミアムモルツを買って、お風呂を先に済ませ1人飲む。

 

思いがけない事、ではなかったのかもしれない。映画のあるシーンを観て泣いてしまってから、そのあるシーンが脳裏に焼き付いて離れず、思い出す度に苦しかった。
サブカル沼に生息する人間同士の終わってしまった尻窄まり恋愛と長い間決別できずに、或いは、決別しないでいる男の話だ、ああ既視感がある、と唯思っていた。どこか蔑むような物言いになってしまっているかもしれない。が、軽蔑はしない。

今日読んでいた『スマホ脳』という新書にしても、この映画にしても、感じたことはほとんど同じようなこと。

人間は平成令和と急激な進化をしたと見せかけて、その実大して何も変わってはいないかもしれない。そのいくつもある面の一面として、未だ、というか、増して、人は人との繋がりを求め、孤独を恐れる。テクノロジーの進歩は、その助けになりはしない。せいぜい目くらまし効果をもたらす程度だろうか。

簡単に人と繋がったと勘違いさせる装置で溢れかえり過ぎている現代。それが理由かは知らない。けれど、勘違いの次は1人の人と深くつながることに対する恐れが皆にやってくる。本当は繋がりを切に願っているのに、各々、唯一無二の存在と。

 

とても便利だと思う、スマホも、その類の様々な発明群も。

ただ自分はもう。

いっそ言葉も捨て去りたい。