緑のコトノハ

いつか人間になるかもしれません。ならないかもしれません。

2021年11月20日土曜日

 

昨日できなかった方の手の爪をといていると、従姉妹と叔母がやって来た。同じ歳の従姉妹は生後6ヶ月の娘を連れて来てくれた。産まれてからずっとタイミングが悪く会えずにいた。新しい初めましての命を自分の腕に抱かせてもらう。幸福感がこの上ない。

叔母は自身は繊細なのに、他人には土足で踏み込むような会話を何の気無しにする。繊細さ故かもしれない。異性関係を、そして、子供は欲しくないのか、を問われた。周りの人間が次々子を産んで抱かせてくれるから今のところ満足している、と正直に言った。阿呆、と言われた。

これは口にはしなかったけれど、本当のところ、出逢うべき相手に巡り逢えば、自分も結婚を、そして、その人の子をこの身に宿したいと心から願うと思う。そしてその通りになると思う。出逢っていないか、出逢ってはいてもまだその時ではないか、そもそも出逢わないか、のどれかでしかない。女体は其れ自体が大自然。命の創造は自分がこの世でできる最高で最大の表現、アートだと思っている。然るべき相手と然るべきタイミングでそれは起こる、と信じている。今はそれが起こりうる可能性があっても、なくても、自分が自分自身になる、というか戻る、ことが必然であるし、最優先にしている。全ては何かの過程。

従姉妹たちが昼前に帰って行く。

午後は父と久しぶりに2人で出かけた。BOOKOFF業務スーパー、湧水を汲みに行ったりなど。谷川俊太郎よしもとばなな、燃え殻、など買う。本当は詩集が欲しかったけれど、田舎のBOOKOFFは知れている。と、思うと同時に、どうして文化人は東京や大阪など都市に集中するのだ、と思いを馳せる。田舎にも文化人がいてもいいではないか。東京でないと物語や詩はかけないのか、まさかそんなわけはないだろう。都市を否定する類の意見とは全く別物として、自分はこれから先も此処にいるのだろうと思う。此処にいて、何処にでも行きたい。

明日は映画を観に行くと決め、その原作を一気読みしてしまった。

雑誌の文通コーナー、復活してはくれないものか。生きた文を交わしたい。温度があって、色気があって、そんな文を。